〒945-0817 新潟県柏崎市宝町3番16号
TEL:0257-22-6532 FAX:0257-21-0596
E-mail:ikechu@kisnet.or.jp

柏崎・刈羽の古庭園紹介

柏崎・刈羽の古庭園

名園の数々が残る越後の中でも柏崎・刈羽には独自の庭園文化があります。
柏崎・刈羽には1つの庭匠の流れのようなものが、明治初年から定着しているようです。 その基礎を築いた人物、松屋爺さんの愛称を持つ「相沢熊蔵」と、銀閣寺等の名園を修築した庭師「田中泰阿弥」が知られています。

田中泰阿弥のお爺さんくらいに当たる世代で刈羽柏崎の庭師の祖といわれた「相沢熊蔵」元は江戸の庭師。 徳川家や大名家に出入りした庭師だったといわれています。
明治維新によって社会情勢が一変し流浪の旅に出、前橋から松本を経て、落ち着いた地が柏崎だったといわれています。 柏崎では、「松屋の爺さん」の下で庭づくりを学ぶ者が多くなり、また教えることがうまかったため、お弟子さんがたくさん育ったようです。 田中泰阿弥は京都の田中家に養子に入るまでは笠原という姓でした。 8人兄弟の長兄が笠原米作といい、その長兄が相沢熊蔵の最晩年のお弟子さんだったそうです。 泰阿弥は幼名を泰治といい、小学生の頃から長兄の仕事を手伝っていたようです。

尋常小学校卒業後に東京の植木屋へ奉公に出て、そして兵役を終えた後に京都へ本格的な庭師修行に励みます。 20歳のとき兄・米作の添え書きを持って京都の庭師・中村満次郎もとへ弟子入りしました。 修行のときが過ぎ、やがて渡り植木職人として転々とし、最後に「植治」こと小川治兵衛のもとに身をよせます。 その間、長安院住職・多田宗夢に師事して茶道のけいこをしていたのが縁で、田中千代の養子となり、田中泰治となりました。1929年(昭和4年)銀閣寺で行われた茶道のけいこに加わっていた折、銀閣寺「洗月泉の滝の石組」を発見、その後「相君泉の石組」を発見します。

古い歴史を持つ庭園の修復、とりわけ夢想国師の作庭になる京都天龍寺、鎌倉瑞泉寺の庭園修復の機会を得たことはその後の作庭に大きな影響を受けたと思われます。

◇古庭園マップ

古庭園マップ 貞観園 豊耀園 加藤邸 静雅園 野沢家庭園 龍雲寺 刈羽村老人福祉センター 松雲山荘
庭園名 所在地 作庭年代 庭園様式 作庭
貞観園 柏崎市高柳町 江戸中期 池泉回遊式
龍雲寺 柏崎市黒滝 江戸中期 座観式
静雅園 柏崎市女谷 江戸後期 座観式
野沢家庭園 柏崎市宮之窪 江戸後期 池泉回遊式
松雲山荘 柏崎市緑町 大正 池泉回遊式 蓮池周作・軍一郎
豊耀園 柏崎市与板 昭和42年 池泉回遊式 田中泰阿弥
加藤邸 柏崎市加納 明治初期 池泉回遊式 相沢熊蔵
刈羽村老人福祉センター 刈羽村 明治 池泉回遊式 相沢熊蔵
※池泉回遊式   池の中に泉池、滝、細流などをつくり水景を楽しむもの、舟遊式、観賞式あり。
※座観式     庭園を観賞するに庭上に出ないで室内から全景を見渡せるものをいう。

↑このページの上部へ

貞観園

「貞観園」は柏崎市の南東およそ20km、国道252号線に沿う山深い所に、土地の名家村山家の庭園が保存会によって手厚く管理されています。

村山家は信濃源氏に発し、寛文13年、改元して延宝元年(1673)この地に住んで以来の名門旧家。 3代正頼は享保年間(1716-35)現在地に移転しました。

庭園は天明3年(1783)5代正朝の建物改築の時にやや趣をなしたといわれています。その後、8代正茂と9代正範の父子は遠州流の手法を加え松村宗悦の指導を受けています。この父子は京都の名士と交わりが深く、正茂の弟が有名な『北越雪譜』の著者、鈴木牧之の女婿であった関係から山東京伝など江戸の人士と交流を持ち、幕府の庭師九段仁右衛門、藤井友之進を招いて庭を改修しています。

園名は天保年間(1830-44)に藍澤南城の命名。

9代正範は茶道を庭園に反映しました。 11代正紀は更に整備を行ったのち、世人に広く公開しようと家族と共に引退し、国宝薬師瑠璃光如来像(平安初期貞観時代の作)のある貞観堂と貞観園等資産の大部分を昭和15年財団法人貞観園保存会を設立寄贈し、管理運営を託して現在に至っています。

※貞観園に残る田中泰阿弥の石庭は京都・竜安寺の石庭(15個の石を配した枯山水)と同数の石を有し作庭されています。

↑このページの上部へ

龍雲寺庭園

「龍雲寺庭園」は享徳元年(1452年)に龍雲玄珠が開山した名刹で、天明の救済事業として桑名家老職の神田兵右衛門が作庭の指揮をとったと伝えられています。

庭は書院西庭で、山腹利用の築山裾から書院の間に石組護岸の池を配するが、一段下った台地から出島が大きくのびているので、凹字形の中池のように見えます。滝は西側にあり二段に落とし落差は約2.5m、滝石組のなかに石仏も安置しています。 滝からは短い渓流となって池に注ぐ西側の石組は土留めを兼ねており、このあたりは当初の形態を良く残し技法的にも優れています。

ただし南側の石組は岩が崩れたため、小石を積み石塊状にしているのが残念です。南隅側の景石は近年の後補です。

植栽はサツキを主とする潅木でおおわれており、そのほかマツ、スギ、カシ、ヒノキ、ヒバなどがあります。全庭にみられる石組や護岸に後世の若干の改修はあるものの、作庭当初の面影をよく伝えています。

↑このページの上部へ

静雅園

「静雅園」は、当家の旧家布施氏七代目の祖良斎が、天保より明治初年に亘り築造し、九代禎二に至り完成したもので、氏は築庭に対して造詣深く、京都より庭師(氏名不詳)を招き、一門野党の協力を得て築造されました。 この庭師は刈羽郡高柳町岡野町村山氏の貞観園の庭の構築に参画して帰ったと伝えられています。

医を仁術として窮する人々を救恤した恩義に感じ、師に従い、主家に協力するにあらざれば、かかる大規模な築庭の事業は完成しなかったでしょう。

静雅園は庭園の妙趣を称されることに止まることなく、良斎、禎二両氏の徳を永く記念する労作です。昭和51年10月9日 柏崎市文化財の指定を受けました。

↑このページの上部へ

野沢家庭園

野沢家は、もとは造り酒屋で、敷地内には多くの酒蔵があったと伝えられています。 本庭は主屋北側に、東西に細長い池(石組護岸)を配し、さらに緩い傾斜の丘陵を築山とし滝石組を設け、水を落としていたと思われる高さ0.5mの水落石を中心に数個の石を組み、山天の石(高さ1.6m)を遠山石風に立てています。 滝口の南側には佐渡の石臼を使用した沢飛石が打たれています。 北部の出島にはやや反りのある切石の石橋を架けました。

正真木はシラカンで、その他庭木としてイトヒバ、カエデ、サツキ、ヒサカキ、を植栽しています。 主屋の東西に打たれている飛石は後袖で、南側の護岸は4〜5年前に袖修されています。
滝組や築山部分の配石に当初の面影をよく伝えています。

↑このページの上部へ

豊耀園(ほうようえん)

豊耀園は、株式会社植木組社長邸の庭園です。
植木家の庭園は明治末年から大正初年、12代植木亀之助氏の時代、相沢熊蔵翁の晩年の弟子、笠原米作氏が造園したものを、13代植木豊太氏の要請により泰阿弥こと田中泰治が、昭和41年から42年にかけて改造し、泰阿弥師により「豊耀園」と命名されたものです。

昭和39年、植木組は創業80周年を祝し県下業界に稀に見る盛大な式典を挙行した。 翌昭和40年、植木社長は、与板本宅の改築を行った。 そして、もう一つ植木社長が果たさなければならぬ念願があった。 それが庭園の改造である。

この庭園は、昭和15年米作氏の亡くなったあと、後継者の笠原一芳氏によって守られてきたが、植木社長は早くからこの改造を計画、その事を一芳氏に氏伝えておいたが、仕事はなかなか始まらなかった。 植木社長がその理由を聞いてみると、一芳氏は、いかに考えても自分にはこの庭園を改造できない。 是をよくするのは京都にいる叔父・泰阿弥師以外には無いと思うので、是非懇請してほしいという。

しかし、肝心の泰阿弥師は戦後、京都に落ち着くいとまさえ無く、各地に仕事に追われていてその機会が無かった。年老いた植木社長が一日も早くと願っていた機会は、昭和41年初夏に到来した。 礼を厚うした招きに植木家を訪れた泰阿弥師と植木社長の一夜の会談で話は決まった。

ほとんど60年ぶりに泰阿弥師は、兄米作氏の手伝いをした思い出の庭園に向かった。 現在の庭園は確かに狭いが、幸いすぐ山に続き、しかもさらにその奥に背景となる山があり、この山地は植木家の所有である。 彼は嵐山亀山の借景をもつ天龍寺を想起し、植木家の期待にこたえる確信を抱いたのである。

造園は石集めの仕事からはじまったが、泰阿弥師は、社長植木豊太氏・副社長植木馨氏をはじめとする植木家家族、植木組社員の人々の深い信頼と心からの協力に、責任の重大さを感じながらも築庭を業とする自分の幸福を思わずにはいれなかった。
泰阿弥師は、この造園の構想と実行の経過を美しい絵と文字で克明に記したが、これは豊耀園の貴重な記録でもある。

この造園の最も大きな仕事は、亭々たる大樹の三本杉を土用の最中に移植したことで、これには植木組の土木機械と70人の人員が動員された。誰もが伐らねばならぬと思っていた大樹を、移植し得ると断言した泰阿弥師には必死の思いがあったのであろう、この時の記録には「何無不動明守護し給え」とある。

若葉の初夏から始まって、半歳の月日を経過し八石山に初雪のくる頃、ようやくその主要なる箇所を終わった。 改造が終わって、求められるまま泰阿弥師は、この庭を『豊耀園』と名づけた。
豊耀園内には、植木社長の泰阿弥師に対する感謝の気持ちを表した黒御影石に銅版をはめ込んだ記念碑が建てられ、泰阿弥師の尽力と才腕を讃えている。

<参考文献 豊耀園記>

↑このページの上部へ

加藤邸

相沢熊蔵はもともとは平岡熊蔵といって江戸は向島の薬屋の倅でした。 しかし生来器用で作庭の技術にもすぐれていました。 40歳のとき、江戸の華美な風を嫌って信州に赴き、松本藩の出入り庭師となり、ついで前橋藩の出入りの庭師となりました。 この頃出会った女性が越後出身で、結局は夫婦となり、妻の姓を名乗るようになったのです。 その作庭の力は多くの人の認めるところとなって、住みついた柏崎・刈羽で次々とつくり続けることとなります。

その作風は環境を巧みに利用して、面積の大小にかかわらずスケールの大きな自然風景を生み出すといったものです。 加藤邸は狭いスペースを有効に用いてつくった池泉は奥深さと自然味を満喫させてくれます。

↑このページの上部へ

刈羽村老人福祉センター(旧安沢邸)

熊蔵が刈羽村の安沢氏の築庭にしたがっているとき、江戸の庭師長太郎が熊蔵の才を惜しんで、高給をもって迎えるから江戸に帰してくれと安沢氏に依頼し、安沢氏もそれをすすめましたが、「長太郎が徳川の庭をつくっていたころは、熊蔵の弁当持ちだった。 いくら困ってもそんな男に使われるのはご免だ」と断ったとのことです。

この築庭の際、初代新潟県会議長の松村文次郎氏も坂田氏(医師)と懇意だったことからこの築庭に参画し、いろいろ意見をのべましたが、さすがの熊蔵もこの松村氏の言だけは素直にきいて、「あの人は尋常の人間でない」と人に語ったとのことです。

↑このページの上部へ

松雲山荘


松雲山荘は、かって柏崎ガス会社の専務だった飯塚謙三氏が、ここに住居を構えるとともに庭作りをはじめ、大正15年から20年の歳月を費やして庭園にしたものである。 その後、昭和46年12月に柏崎市へ移譲された庭園である。築庭、植樹は柏崎、四谷の植木職・蓮池周作・軍一郎氏の父子2代にわたっての仕事であった。

庭園内は赤松、つつじ、もみじ、その他多数の樹木に覆われ、その間に灯籠、石碑、太鼓橋、東屋、池泉,などの他、無数の巨石を配している。 松雲山荘の名は、ガス会社の取締役だった丸田尚一郎氏が親しくしていた元首相の清浦奎吾氏に依頼し命名し碑文も同氏の筆になる。